02.長野県 小布施町 <栗のブランド>2002.05


● 栗の苗木を植える

皆さんは、栗と言えば「松茸、黒豆」とともに、全国に鳴り響く丹波の3大物産と思ってい
らっしゃいませんか。私も十年ほど前までそう思っていました。ところが少なくとも東日本
では、「栗=小布施」のブランドが定着しています。なぜでしょうか。長野の建築家仲間が
言うには、「遠く鎌倉時代に丹波(篠山)から栗の苗木をもらい、寒冷で乾いた地、北信
州の小布施に植えた。これが地元の人々の飢えを救うとともに地域の振興に役立った
ことを、地元では代々語り伝えている。」とのことです。

● 栗の文化圏

縄文時代には、栗の実は食材、栗の木は建材でした。栗は水湿に強く腐らないために、
柱に幹が、屋根に幹の皮が、掘立式の竪穴住居に使われていました。柔らかい木よりむ
しろ硬い栗材の方が石器では削りやすかったようです。近代に至っては、栗は主に線路
の枕木に使われていました。NHK「日本人はるかな旅」によれば、「縄文人の生活を支
えていた栗が寒冷化によってなくなり縄文文化圏と集落が消えていき」ました。栗は移植
が困難で自生せず、栽培できる人家集落の近くにしかないのです。栗が豊富な丹波は、
縄文時代には栗以外の栽培を必要としない、人家が散在する豊かな地域であったに違
いありません。

写真1.小布施のまちなみ写真2.北 斎 館

● まちおこしの契機

まちおこしは、地域の産業と密着した「個性あるまちを興す」ことです。小布施の場合、き
っかけは二つほど考えられます。
一つは、北斎館の開館です。江戸から葛飾北斎が訪れ滞在した時描かれた多くの肉筆
画を展示するために、1976年に開館しました。これがまちの人々に力を与えました。
来館者数は、初年度の3万5千人ほどから、今では100万人以上もあります。つまり客
を遇する心や作法がまちを動かしたのです。表通りだけでも清潔にし、まちを美化しようと
する気運が生じました。
二つ目は、地元の栗菓子店や造り酒屋などから北斎館を中心にまち全体をネットワーク
でつなぐ「複合化の視点」が生まれてきたことです。以前の「窮屈で寂しいまち」が、これ
を契機に民家が表通りから後退し、落ち着いた風情の建築物が増えていきました。伝統
的にこのまちは、葛飾北斎が長期にわたって滞在したように、よそ者をも受け入れる温
かさと敷居の低さ、距離感のなさが文化的な風土と思われます。

● まちづくりの方法

小布施は、和風建築の信用金庫、格子戸をデザインの主題とした栗菓子店、瓦屋根の
家並みに無彩色や茶色の落ち着いた外壁など、独特の「風土と伝統に根ざした個性あ
るまちづくり」が住民主体で進められてきています。(写真1)
このコンセプトは3つで、
1.外はみんなのもの、内は自分のもの。
 多くの人の目に触れる建築の外観は全体の調子にあわせるべきですが、家の内部は
 どうぞご自由に、ということです。
2.等価交換で3つの共有空地をつくる。
 (1)北斎館前(写真2)の広い「笹の広場」。(写真3)
 (2)栗の木の断面を見せた「栗のこみち」。瓦屋根の美しい建築が満喫できます。
 (3)民有地の交換で地面の車の軌跡を風の模様とした居心地良「風の広場」。(写真4)
3.私有地内の隙間は公有地扱い。
 文字どおり「垣根を越えて」他の住民や観光客にも開かれています。所有者も一向に
 気にせず日常生活を送る大らかさがあります。通りがかりにちょっと縁側に腰掛けてお
 茶を一杯いただけそうな雰囲気です。

写真3.栗 の こ み ち写真4.風 の 広 場

● 何のためのまちおこしか

こんな小布施にもいま異変が起きています。まちの象徴的な北斎館前の駐車場が大型
バス専用となり、多くの観光客が一度に吐き出され、土産物店を覗いてさっと引き揚げ
る。観光名所へ来ること自体が目的になるのでしょう。それに町外資本の進出も目立ち
ます。彼らは条例を守らず景観を壊す展望台付きの建築をつくり、地域に無関係な物産
を特産品に似せて販売します。

また地元の人も売る作法と節度を充分ご存知でしょうが、特産品の供給が需要に追いつ
かなくなると、その原材料は他所から調達し始めます。やがて観光客も地元原産との格
差を発見して満足しきれなくなり、地場産業に陰りが出始めるのでは、と危ぶむ声もあり
ます。何事も「足るを知る」が持続ある発展に欠かせない条件でしょう。周囲の栗林は、
単にショールームとしての地域景観となってしまうのでしょうか。今後が見ものです。

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