11.滋賀県 近江八幡<近江商人と慈善事業>2005.09


W・M・ヴォーリスという建築家をご存知でしょうか。取り壊しか改修使用するかで話題を
集めた滋賀県豊郷小学校の設計者です。町長のリコール・返り咲きで、結局は用途未定
のままの保存になりました。

● 慈善事業家+建築家

ヴォーリスは、明治38年、25歳で米国から来日、近江八幡に住み着く。キリスト教の伝
道師、事業家でもあります。事業家としては、メンソレータムで有名な「近江兄弟社」を設
立。建築設計や塗薬の販売で得た利益を次々と慈善事業に注ぎ込み、治療院・幼稚園・
図書館もその一環として建てました。ミッション系大学の校舎も多く手がけ、関西では関
西学院、神戸女学院、関東では明治学院、東洋英和女学院などです。私は一地方都
市、近江八幡を拠点とした彼の生き方はもちろん、建築作品自体ももっと高く評価されて
も良いのではないかと思います。建築は設計者の人柄を大きく反映します。造形もさるこ
とながら、人の手や目に直接触れる部分の温かみや適度な装飾等、その優しい感性が
表現されています。

地図1.絶妙な距離にある旧市街と鉄道駅写真1.よみがえった八幡堀

● 近江八幡の歴史と都市構造

近江八幡は、琵琶湖中央部の南岸を望む八幡山に関白秀次が築城し、周囲に堀を開
削したことから始まりました。幅15m、全長5qに及ぶこの堀は、外堀という防衛機能だ
けでなく、湖上交通という物資流通機能も併せ持っていました。八幡堀の南に町人地が
碁盤目状の街路で区画されました。安土城炎上後、楽市楽座の商人がそっくりそのまま
安土から移転してきたとも言われます。築城後わずか十年で廃城となり、「城主を失った
八幡町民は活路を広域的な商いに求め、諸国に出店をもつ近江商人が誕生した」、との
説もあります。

明治以降のこのまちの都市構造を決定づけたのは、市街地から約2qという微妙な距
離の田園の中に鉄道駅が造られたことです。新市街地が、旧市街地と鉄道駅との間に
区画されて「新旧市街地の複眼都市」として発展しました。駅がもっと近ければ、旧市街
は都市化の波に呑まれたでしょうし、遠すぎれば、衰退したかもしれないのです。篠山の
場合、約5q離れているために市街地が鉄道駅まで延びず、残念ながら旧市街が沿道
型店舗を張り付けつつ拡大しています。

● 堀の復活運動

旧市街の象徴・八幡堀は、ほぼ30年毎に行われた「川ざらえ」が昭和になって廃れ、ド
ブ川に成り果てようとしていました。悪臭や害虫の発生のため、この堀をコンクリートの
排水路とし、残りを埋め立て、公園や駐車場とする計画がもち上りました。ちょうど篠山
城の外堀が埋め立てられて、水路と駐車場になった景観を想像して下さい。それに対し
て、近江八幡青年会議所(JC)は、「堀は埋め立てられた瞬間から後悔が始まる」との合
言葉で、より良い改修で復活の道を模索しはじめました。堀を文化遺産のみならず、都
市成立の基盤と捉え、更に広く世界に飛翔した近江商人の象徴と見做す新しい価値観
を提示しました。

全面的な修復には、堀の石垣の強度やヘドロの除去などの難題がありましたが、八幡
堀を愛する地元の若者の熱意が行政と住民を動かし、総市民運動になったのです。
ついに1976年、全面修復工事が始まり、82年には旧国土庁の水緑都市モデル地区に
指定されました。八幡堀の中心部300mの区間が整備され、石垣が復元、南岸沿いに
遊歩道、親水広場も設けられました。

写真2.八幡堀と「かわらミュージアム」写真3.近江商人の本店町・仕舞屋風街並

● 伝統と創造のバランス

更に92年には、旧市街の一部と八幡堀沿い一帯が、国の伝建地区に指定され、同時に
この地区内の瓦工場跡に、地元名産の八幡瓦の歴史を伝え、瓦の新しい可能性を探る
目的で「かわらミュージアム」もできました。八幡瓦をのせた蔵づくり風の建築は、単に伝
統の継承と模倣を超えて、現代の造形センスと新しい技術による材料の組み合わせの
微妙な均衡のうえに成立しています。堀の屈曲部という良いロケーションに加え、しだれ
桜を角に配した広場は、周囲との違和感もなく昔からそのままあり続けたような佇まいを
もっています。民家側からこの建築を貫通し、堀に至る回遊性のある散策路もあります。

町並は控え目な仕舞屋(しもたや)風で、間口の広い二階の構えや格子戸、「見越しの
松」などが格子状街路の風情を今に伝えています。近江商人の本店町は、賑やかな目
抜き通りや派手な店構えとは無縁です。

地元JCの冊子にはこうあります。「まちづくりとは、子孫にどのような環境を残すかを考
え行動することの一言に尽きる。」

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