03.愛媛県 内子町<建築群を創造的に残す>2002.09


内子町は、松山市の南約40キロにある人口約1万2千人ほどの小さな町です。ご存知、
大江健三郎さんの出身地です。ここは「お遍路さんへの『もてなしの心』が現代に息づくま
ち」です。城下町でなく、木蝋と和紙の生産で栄えていました。近代化の波に少し取り残さ
れた結果、江戸後期に完成した古くて美しい町並みを創造的に残しています。特長は、
内子座、目抜き通り、重要伝建地区の3箇所にあります。

● 木造の内子座

600人ほど収容できる木造の芝居小屋で、江戸時代の様式を大正5年になって花開か
せました。それを修復して、回り舞台や迫り・すっぽん(昇降床)など、全て人力で動く歌
舞伎劇場の体裁が整えられています。講演会場としても最適です。構造も内装も木材で
すから現法規では違法(既存不適格)ですが、例外的です。(写真1)篠山にも芝居と映
画に供する木造の「楽天座」がありました。1970年に焼失しましたが、今あれば、と惜し
まれます。

● 様々な時代の建築が混在する目抜き通り

(1)用途の移り変わり
下記写真2の左は昭和初期の建築で、元警察署、現図書館です。学術的にはさほど評
価されないかもしれませんが、建築は使い方次第で良くも悪くもなると思います。機能は
変わっても本体を非常に大事にしているのです。外観は人々の目に触れますからまちの
イメージづくりに役立っている。しかし、中身の用途は必要に応じて変えられることを示し
ています。右は明治初年に出来た小学校です。改修されて郵便局、電報電話局、次に農
協、今は児童館です。改修を繰り返し、現在は5代目の用途です。(写真2)

近代建築は、1つの機能に最も適合する空間を求めてきました。いわば単一機能に特化
した建築です。その役割が終われば用途変更が難しく、建て替える方がコスト安でした。
しかし、建築の本体や輪郭を丈夫にして、大きな空間とそれを支える空間さえ整えておけ
ば、時間の経過に応じて要請される機能には柔軟に対応・再生できます。

写真1.内 子 座写真2.用途変更されてきた建築

(2)試行錯誤の結果としての伝統様式
目抜き通りの下芳我邸は、木と漆喰の格子のある伝統様式です。前近代のものは地元
で採れる材料で、人の手間と労力、時には「結(ゆい)」によって作り上げられており、何
世代にもわたって推敲と試行錯誤を重ねながらやっとたどり着いたこの地方独特の様式
です。一朝一夕にはできない強い迫力と説得力があると思います。(写真3)

(3)記憶の重なりと引き継ぎ
近代建築は、総じて内部の明るさと適度な温度を確保し、窓を閉じ、風通しをなくしようと
してきました。光と熱と風の3つを技術でカバーしてきたのです。また特にこの半世紀は、
見栄えのする建築を早く、安く、大量に、傷んだり飽きたりすれば建て替えればよい、と
いう使い捨ての消費財として建ててきました。その結果、情緒と引き換えに技術の合理
性にとって替わられて軽薄になり、長年蓄積された景観が短期間のうちに変わりました。
様々な時代の建築が混在することは、まちに深みと風格を、人々に安らぎを与えます。

● 八日市・護国地区(伝建地区)

1982年、建物だけでなくまち全体が重要伝統的建造物群保存地区に指定された場所
です。人々が生活し、同時に外来の客が町並みを観賞しつつ散策するという生活と観光
とが両立した地区です。(写真4)町並みは連なりますから、他所と同じように建てながら
しかも個性を出すのです。大きな骨組の造りはほぼ同じで、細部で若干の違いを持たせ
ています。漆喰や土壁などの伝統的素材をかたくなに守りつづけています。夜は外来者
のためにどの家も玄関先に木蝋と和紙の提灯を下げ、まちを挙げて「もてなしの心」を
表わします。

この通りは四国八十八箇所、約1,400kmを巡るお遍路みちでもあります。開口部は
上げ下げ窓や兆番で開く可動の戸で、お遍路さんにお茶をサービスするための造りで
す。上は日射を防ぐ庇、下は縁台になります。昼間は商家の商品陳列台としても使わ
れ、夜は立てて壁に収納します。通りに面する至る所は、「どうぞ疲れた方は休んで下
さい」というお遍路さんへの優しい気配りや暖かいもてなしの心に満ちたまちづくりです。
(写真5)
個性的なまちは、息づく伝統を慈しみ育て、その記憶を未来に引き継いでいます。

写真3.下 芳 我 邸写真4.護国地区のまちなみ写真5.商  家

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