08.広島県 鞆の浦<和式港湾の開発・保全>2004.05
瀬戸内海のど真ん中にある「鞆の浦」という美しい和式の港をご紹介しましょう。古来より
船の交通の要衝・潮待ち港です。
● 鞆の浦の保全運動
瀬戸内海で東は紀伊水道、西は豊後水道の双方からの潮がぶつかるところです。和船
が満ち潮に乗ってこの港に入り、しばらく待って、引き潮とともに港を出て行く中継地で
す。(写真1) 万葉に詠まれ、厳島神社とともに平清盛の頃から繁栄し、江戸時代には朝
鮮通信使が大坂を経て京・江戸を訪ねたとき、(地図1)また幕末にシーボルトも泊まって
います。坂本竜馬の海援隊「いろは丸」が沖合で紀州船と衝突する事件もありました。
今は動力船で、大抵の港が近代化されましたが、ここは直径400mほどの丸い、自然
のままの港です。こんな港は日本にここしかありません。同時に京都よりも古い町並が
残っています。陸上交通の近代化から取り残されたため、バスが通ると道路が一杯で、
車が通れない。港を埋めたいという開発派と「守るべきだ」という保全派とが対立してい
ます。いま後者が、世界遺産に登録する運動をしているところです。
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写真1.鞆の浦・全景 | 地図1.鞆の浦の位置・朝鮮通信使航路 |
● 江戸時代の和式港湾の5点セット
和式の港には5つの特徴があります。護岸は、「雁木(がんぎ)」といいます。満潮時には
潮が5〜6mほどの高さになり、干潮時でも船を着けられる石段状の護岸です。次に当
時の灯台・「常夜灯」。(写真2)第三に「焚場(たでば)」といって、ここで和船をあげてフナ
ムシを削る。第四に防波堤・「波止場」。(写真3)今はほとんどコンクリートやテトラポット
でつくりますが、自然石を組み上げています。波の勢力に逆らわず、その力を半分ほど
に弱めると言われます。最後に、「船番所」で、船の出入りを見張ります。これら江戸時
代の港の5点セットが全部そろっている、日本で唯一の和式港湾です。
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写真2.港の象徴・「常夜灯」と「雁木」 | 写真3.自然石による「波止場」 |
● 形骸化した祭り
近海はまた鯛の豊漁地でもあります。かつては釣り船で鯛を獲っていましたが、近くに水
島臨海工業都市ができました。加えて生活汚水が全部一緒にここに流れてきます。この
排水に含まれる細かい繊維が海底に沈殿し、棲息する魚のえらに入ります。その結果、
鯛が全滅してしまいました。ところが鯛料理の本場なので、今でも「鯛祭り」というお祭り
があります。鯛をどこかから持ってきて、網の中に入れてすくうだけでよい。現在の祭り
は全くの形骸です。今私たちが守っている伝統文化には、形骸が多く見られます。本来
の海の生態系を回復させるのは、時間がかかっても「魚つき林」などで十分可能なはず
です。
● 見捨てられていた井戸と水神様
また旧市街は、繁栄した都会としての骨組みが元禄にでき、由緒ある建物と町並が現代
にまで正しく伝えられています。それは京都にも比肩しうる誇りに支えられ、どんなに優
れた設計者の手もこの質の高さには遥かに及びません。昭和30年代の福山市への合
併で水道が引かれた途端、随所にある井戸もゴミ捨て場となり、水神様も最近までゴミ
の山の中に埋まっていました。高度成長期まで、この井戸替えは七夕祭りに行われる伝
統的な行事でした。近代文明が来ると、土着の文化が即座に消えてしまいます。
まちおこしは、道路をつくり港を埋め立てることではありません。一生懸命に知恵を出し、
井戸を掘って水を確保し、水神様を祭ってきた先人にまず敬意を払うことです。土地の
古老の話を聞き、継承された精神や伝統、まちの心などを生かすことこそが、「まちおこ
しの極意」でしょう。
● 集落自治体の象徴・法界碑
日本には、古来より集落の自主独立の精神が随所にありました。鞆の浦には、いまも
「法界(ほうかい)」という石碑が、まちの南北2箇所に象徴的に建っています。西洋や中
国なら町全体を城壁で囲むところです。「法界」とは、どの集落自治体も自分たちで守り、
「どんな旅人もここへ一歩でも入れば集落の掟に従え」という仏教用語です。
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ところが、この法界に見られるような自らの 町を大切にする作法や精神という「鞆の浦
固有の文化」は、寂れたまちの遅れを取り 戻そうとする急激な近代化、広域化や画一
化などの前にもろくも消えかけました。それ は「変化や進歩こそ善」という近代以降の合
理的な価値観が徹底した結果かもしれませ ん。しかし、これからは逆に「古さこそ真に
新しい」との観点から地域固有の文化を見 直すべきときでしょう。
「鞆の浦、ともかく生きておれ!」
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写真4.江戸時代の街並 写真5.法界碑 |